◆ルワンダ虐殺について考察
先日、ムランビの虐殺記念館を見学した。
虐殺の経緯は大体はわかったけど、どうにも理解しがたい箇所がいくつかあった。
で、ブルンジの入国準備を待ちつつ、暇つぶしにいろいろ調べていたので、せっかくなのでまとめて書いておくことにする。
(注)そこまで知ってどうすんの的な内容だし、わかりやすくまとめる時間もなかったので、普通の人は読まないほうが良さげ。
逆に理解の妨げになってしまうかも。
◆ざっくり経緯(未)
本題の疑問点に行く前に、とりあえずざっくり経緯をまとめ…ようと思ったけど時間がない。
時間を見つけたら書きます。
まあこういうのは色んな人が書いてるから僕が書く必要ないよね。
◆疑問点①
なんでベルギーはもともとツチ族を中間支配層に据えていた(ツチ族推しだった)のに、ルワンダ独立直前にフツ族を推すようになったの?
第一次世界大戦でルワンダを手に入れたベルギーは、円滑な植民地支配のためにツチ族を中間支配層に据えていました。
ベルギーは今まで曖昧だったツチ族とフツ族の違いを明確にし、ツチ族がフツ族を差別するのをサポートしていきます。
しかし1950年代後半、他のアフリカ諸国と同じようにルワンダでも独立機運が高まると、ベルギーはいきなりフツとツチを入れ替えフツ族をトップにしてルワンダを独立させます。
これが1962年のこと。
他のサイトでは「1973年のルワンダクーデターでフツ族が台頭してきた。」なんて書いてある所もありましたが、ジェノサイド記念館には「1950年代後半からベルギーはフツ族に近づき、ツチ族を差別するようにけしかけていた。」という記載がありました。
なぜベルギーは、独立の間際になって中間支配層をわざわざ入れ替えたんだろう?
調べた所、主な理由を2つあるようだった。
理由①
1950年台の時点でそもそもベルギーはルワンダを独立させるつもりはなかったようです。なぜならルワンダの内政はまだ不安定で経済的にも貧しい。独立までは100年以上かかるなんて当時は言われていた(ベルギー当局の発言)。
当時ベルギーは、現在のコンゴ民主共和国、ルワンダ、ブルンジといったあのへんの地域をすべて統治していた。
しばらくはその一帯の統治を続け、最終的にはベルギー領にしてしまおうという目論見すらあったようだ。
1950年台にルワンダで独立運動を行っていたのは主にツチ族でした。逆にフツ族としては、ツチ族がトップのまま独立なんてしたら、もっとツチ族による差別が激しくなってしまう。そのためフツ族は独立運動よりも差別の撤廃を求めて政治活動をしていた。
当然植民地支配を続けたいベルギーとしては、独立運動を行うツチ族のほうが邪魔になってくる。
そのためベルギーはフツ族近づき、ツチ族を差別するように仕向け、中間支配層をフツ族に交換。それによって新たな体制で植民地支配を続けようとしたのだ。
その後予想外にコンゴ民主共和国の独立が決まってしまう(1959年)。
そうなるとベルギーの残る土地はルワンダとブルンジ(当時はルワンダ・ウルンディという一つの国)という小さな貧しい土地のみ。
当時経済的にそこまで余裕がなかったベルギーとしては、わざわざそんな小さな土地のためにアフリカに割いている予算がなかった。
というかそもそもルワンダブルンジ価値というのは、「コンゴの盾」だったのだ。
ベルギーは、アフリカ一豊かな鉱山資源を持つコンゴ民主共和国を守るためだけに、ルワンダ・ウルンディを使いたかっただけ。
ルワンダ・ウルンディ単体での利用価値なんてハナからまったくなかったのだ。
そんなこともあり、ベルギーはルワンダ・ウルンディ植民地支配をやめ。
ルワンダの独立を許し、フツ族が台頭してきてまだ政治的に安定しないルワンダを放り出すことを決めたのだった。
理由②
ベルギーは国連の「ルワンダを民主的に独立させてほしい」という意図を汲みたかった。そのため「少数派のツチ族を支配層にするより、多数派のフツ族を支配層にしたほうが、より民主的でしょ」という考えが働いた。
何ていうかほんと適当…。
大国でもなくコンゴなど他の植民地支配にも失敗していたベルギーは、どうにか国際社会で汚名を返上しなければいけないと焦っていた。
その結果がこれなんでしょうね。
そもそもベルギーなんて自身の独立すら19世紀に入ってから。
その後、遅れてやってきた列強国として植民地支配に乗り出すも、いろいろ失敗やひどいこと続き。最悪の宗主国なんて言われることもあるほど。
そんな彼らにルワンダの統制なんて最初から無理だったんでしょうかねえ。
結局ベルギーが離れた後、フツ政権に大国であるフランスが近づいてきて良いようにやられるという。
ルワンダ虐殺自体も、フランス政府がかなり後押しをしていたとルワンダ政府は主張しています。
フランスの軍人がフツの民兵に「人の殺し方」を教えたり、実際にツチ族の虐殺も行っていたようです。
まあフランス政府は否定していますが、ムランビの虐殺記念館にはそのこともしっかり書いてありました。
◆疑問点②
1994年に起こったルワンダ虐殺。フツ族による一方的なジェノサイドという印象なのに、なぜのツチ族側の勝利で幕を閉じることができたのか?
ホテル・ルワンダ(ルワンダ虐殺を題材にした映画)などを見ると、ルワンダ虐殺が発生するまでずーっとフツ族が優勢なのに、最後にいきなりツチ族の主体の軍隊であるRFPが勝つみたいな印象を受けてしまう。
そしてツチ族主体で新政権が誕生する(まあ今の政権は民族にかかわらずフツ族の登用もしているみたいですけど)。
個人的には「アレ?ツチ族勝ったんだ…」って感じでした。
これ、調べたんですがあんまり決定的なことが乗ってない…。
ただ、ルワンダ虐殺直前の1993年、ツチ族とフツ族が一度和解したとき、これはどうやらツチ族優勢の和解(実質的にツチ族勝利)だったみたいですね。
これはちょっと主観も入ってるんですが、ずーっと和解交渉の要求をされてきたフツ政権が和解の応じざるを得なくなってしまった印象です。
Wikipediaの「ルワンダ紛争」のページでもRPFの勝利って書いてあるし。
そもそも最初からツチ族が優勢だったんですね。
そう考えるとルワンダ虐殺も、強いものが弱い者を殺す一方的な虐殺というよりも、「窮鼠猫を噛む」的な形に見えてくる。
なぜツチが優勢だったかと言うと、
①ウガンダ政府の強力な後押しがあった(ルワンダ人ツチ族は、当時のウガンダ政権が実権を握るためのクーデターに協力していたため。)
②当時のルワンダは景気が悪く、市民の不満が与党に向けられ、フツ族でもRFPに入る人がけっこういた。
③当時のRFP最高指導者、ポール・カガメの手腕がすごかった。
などがあるみたい。
ちなみにポール・カガメは一度アメリカに渡って軍事訓練を受けていたみたい。
もしかしたらアメリカの援助とかあったんじゃね?と思ったけど、そんな話は見つからなかった(援助の要求はしたみたいだけど)。
けど援助もあったんじゃないかなーと想像してしまう。
そうなるとフランスVSアメリカという大国の代理戦争の図が見えてしまうけど、これはちょっと妄想しすぎか。
ルワンダ虐殺と言うと、「フツ族がツチ族を殺した」というイメージがありますが、ツチ族(RFP)も大量のフツ族を殺しています。
お互い血で血を洗う、大虐殺劇だったんだそうな。
◆最後に
うまくまとめきれないけど、一応残しておきたいことは書いた!(めちゃくちゃおっくうだったけどやっと時間を見つけて一気に書きあげた。)
正直、現地では虐殺の話を出すのははばかられて、ほとんどの情報はネット情報。
もったいないなーとは思う。
けど、何回か際どい話題を出してみたときに、やはりみんな過去の話には触れたくないようだったので、本当に「タブー」ということなんだろう。
唯一虐殺記念館のスタッフには話を聞けそうだったけど、正直あの教室を見てしまった後だといろいろ突っ込んで話をする元気なんてなかった。
まあ「深く知っていれば知っているほどいい」というわけではないので、このくらいにしておこうかと思います。
では。
コメント