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【ムランビ虐殺記念館】
ルワンダ虐殺の悲惨さを後世に伝えるため、ルワンダ中にいくつも建てられた虐殺記念館のうちの一つ。
事件当時、学校だったこの場所に数万人のツチ族が逃げ込んでいたが、フツ過激派の攻撃を受け、ほとんどの人間が殺されたという。
◆2019.3.7
※ルワンダ虐殺を知らないとわからないところがあるのはご容赦ください。
このブログ、基本は自分のための記録なので、ある程度知っている前提で書いてます。
まあ概要だけなら3分もあれば調べられると思うので、ちょっと調べてから読むことをおすすめします…。
今日は虐殺記念館に行く。
ルワンダには国中のいたるところに虐殺記念館がある。
それこそキガリにもあるのだが、数ある中でここを選んだ理由はルワンダから北上してきた人に薦められたからだ。
ここの展示が一番衝撃的らしい。
泊まっていたMONTANA HOTELからは3kmほど。
行きは上りなので歩くのは少しきつい。
通りで捕まえたバイタクで向かう。
客は誰もいないが綺麗に整えられている。
ちなみに僕が帰るまで誰も来なかった。
ここに何人ものツチ族が押し込められ、順番に連れ出されては殺されたらしい。
建物に入ったところで職員らしき人に話しかけられた。
「ここの記念館には2つのセクションがある。1つは展示でもう1つは…展示を見終わったら俺が案内するよ。」
とりあえず言われたとおり展示室を見る。
展示室には虐殺が起きた経緯や関係者の証言、虐殺で生き残った人の手記などが展示されていた。
正直ボリュームは多くない。
日本語だったら30分もあればすべて読めてしまう量だ。(英語だったから時間がかかったが。)
展示の中では、民族のいがみ合いが始まった原因が欧米諸国が持ち込んだ分割統治であること。
そして虐殺が起こっている中、国際社会がルワンダを見殺しにたせいでどれだけ犠牲者が増えてしまったかが繰り返し強調されていた。
「国連は虐殺の共犯だった。」という言葉に、よくそれが現れている。
ちなみに、個人的には展示内容は、3つの理由で少しがっかりだった。
①僕は事前に虐殺の経緯などを調べていたので(ここ数日は暇だったからね!)、大体知っている内容の展示だった。
それに、事前調査の中でいくつか自分の中で残ってしまった疑問にも答えてくれるものではなかった。
ちなみにその疑問は、記念館の職員にも聞いてみたがふんわりした回答しかもらえなかった。
まあこれはあとで調べて別途まとめて書こうかなーと思います。
②虐殺の加害者の証言、手記などがなかった。
殺された人の悲惨さはわかるんだが、殺す側にまわってしまう人の状況や心理のほうが理解しがたいので、そっちのほうが知りたかった。
加害者側にまわった人の中には、生き残るために仕方なく殺した人もいれば、サディスティックな快楽を求めて殺した人も少なくなかったという。
今彼らはどう思っているのかが知りたかったのに。
③虐殺からルワンダはどうやって復興したのか、が書かれていなかった。
これ一番大事だと思うんだが…。
ただ、メインはここからだ。
展示室を出て先ほどの職員のところに行き、「次のセクション」に案内してもらう。
職員は建物を出て外に向かう。
ツチ族が埋められていた穴や、埋め立てのために使われていた機械などを紹介されたあと、長屋のような建物に案内された。
1つ目の部屋には、あたり一面の骸骨があった。
これは土の中に埋められていた遺体らしい。
次の部屋も骸骨。
次から2~3部屋は腕の骨のような棒状の骨が敷き詰められた部屋が続く。
そして次からは完全な遺体だった。
ミイラを石膏で固めている(?)ようで、腐敗はしていないようだったが、今まで嗅いだことがない匂いがした。
これは死体の匂いなのか、石膏や薬品の匂いなのか。
4畳ほどの小さな部屋に所狭しと死体が並べられている。
何体あるのか数えることもできない。
死体の部屋を職員とともに順番に回る。
4つ目くらいの部屋に来たときに、「入らないのか?」と言われた。
どうやら自然と足が部屋の前で止まっていたらしい。
なんとか一歩入って死体を見る。
1つ目の長屋の部屋を見終わった。
「まだ続きがあるんだが、もう十分か?」と言われた。
正直もう帰りたかったが、ここで帰ったら後悔するような気がしたので、「続けたい」と答えた。
帰りがけ、職員に「何歳か?」と聞いてみた。
もうされ慣れた質問なんだろう、「当時は16だった。だから全部見てきた。」という答えが帰ってきた。
「どっち側」で見てきたのか気になったが、それを直接訊くことはできなかった。
まあこの答え方とここで仕事をしているということは「被害者側」なんだろうが。
帰り道。
学校に行くという子どもたちに絡まれる。
方向が一緒だったので、自然と一緒に歩くことに。
彼らは僕のカメラが気に入ったようで、貸してやったらいろんな物やすれ違った人を取りまくっていた。
そう言えばこういうのもスーダンぶりだ。
エチオピア以降はとてもじゃないが奪われそうで、カメラを現地人に渡すことなんてできなかった。
これが子供目線ね。
一人が腕立てをはじめてもう一人が撮影。
女性はだいたい写真を嫌がるもんなんだが、子供が撮っているとさすがに逃げずに写ってくれる。
途中で子どもたちと別れて一人で帰る。
丘丘丘。
はいはい千の丘の国ね。
途中でいきなり眼の前にゲートが現れた。
そこには「刑務所」と書かれていた。
来るときにこんな場所はなかった。
どうやら少し道を間違えてしまったみたいだ。
それよりも…もしかしたら加害者の話が聞けるかも知れない。
そう思ったとき、途端になんとも言えない高揚感と緊張感に包まれた。
ルワンダ虐殺は1994年、20年以上前に起こった。
加害者の大半はもう釈放されていると聞いているが、まだ残っている人もいるのではないか?
ゲートにいる兵士に話をする。
自分は戦争や紛争、虐殺などについて勉強していて、ルワンダ虐殺の加害者に話を聞きたい、というようなことを必死で説明する。
兵士は少し困った顔をしていたが、最後はどこかに無線で連絡をし、ニコッと笑いながら「入っていいぞ。まっすぐ進んでオフィスに行け。」と言ってくれた。
まさか許可されてしまうとは!
どうしよう?とか何を聞こう?とかいろいろなことが頭を回る。
とりあえず落ち着くために、まわりを観察しながらゆっくり歩いて進むことにする。
刑務所の中には学校の校舎のような建物があり、中から数十人が何かを音読する声が聞こえてきた。
当然現地語なのでわからないが。
刑務所内には木材で何かを作っている人や、土を掘って地面を整えている人などがいた。
おそらくみんな囚人だ。
でもみんな明るく挨拶をしてくれるし、とても犯罪者には見えないようは朗らかな表情をしている。
オフィスに着く。
そこで待っていた職員に、門番に言ったような内容の説明をするが、
結局、パーミッションを要求されました…。
まあそりゃそうだよね…。
いきなりやってきたどこの国の人間かもわからない輩に、囚人に会わせられるわけないよね…。
職員にちょっと刑務所についての質問をしてみるが、パーミッションがないといかなる質問にも答えられないとのこと。
まあ、当然の結果ですが。
その後は歩いて正しい道を戻り、ホテルへ。
預けてあった荷物を受け取り、昨日乗り換えをしたフイエという街に行きます。
ここのホテルは10,000フラン(1,200円くらい)と高いからね。
フイエはルワンダ第2の都市なので、安宿があるはず。
昨日着いたバスターミナルでフイエ行きのバスに乗り込む。
バスに一時間ほど揺られ、フイエに到着した。
フイエの道。
第2の都市と言われるほど大きくはないと思うが…。
事前に目星をつけていた「African Motel」という宿にチェックイン。
1泊6,000フラン(700円くらい)。安い。
夜はビュッフェ。
昨日の夜も今日の昼もビュッフェだったしそろそろ飽きてきたな…。
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